「あやうみ」という女性シンガーがいる。苗字はなく「あやうみ」だ。この名前を覚えていて損はないだろう。彼女は、地下アイドル、と言えばそうかもしれないが、私はそうは考えていない。批判を畏れずに言うと、彼女の歌声はいわゆる“地下アイドル”という言葉のイメージからは大きく逸脱するほどの確かな歌唱力を備えているのだ。
この日、私が初めて訪れた渋谷DESEOという会場は、ドリンクバーを兼ねたラウンジの奥にもうひとつ扉があり、その中にライブホールがあるという構造だった。到着した時には前半で出演したアイドル目当ての客がホールを出てラウンジを埋め尽くしており、ドリンクを手に持った状態で混雑しているため、なかなか人混みをかき分けることも困難で、ライブホールへたどり着くまでに体が当たっただのなんだのと因縁をつけられ2人とトラブルを起こした。...ともあれ、クズどもを一蹴し不機嫌をどうにか抑えてステージにたどり着くと、すでにあやうみはステージに立っていた。
歌っていたのは「コンプレックス・イマージュ」。彼女の得意なレパートリーのひとつで、過去にも何回か聴いているのだが、私はこの曲を彼女一人で歌うのを初めて聴いた。しかし原曲がそもそもデュエット曲ではないので、特に問題はなかったようだ。何度聴いても飽きない魅力のあるこの曲を、彼女は完全に原曲を凌ぐレベルで歌いこなしていた。聴衆もお馴染みの曲に満足しているかのように見えた。併せて言うと、この会場の音響はとても良かった。オケもかなりの音量だったが、そのなかでボーカルがレイヤーを分けたようにくっきりと聴き取ることができた。優れたシンガーに優れた音響。私の機嫌はたちまち回復した。
MCも挟まずに続いた曲は「ETERNAL BLAZE」。この言わずと知れた名曲のイントロをあやうみが切なく歌い上げると、彼女を初見だと思われる聴衆たちも大きくリアクションしていた。聴き慣れすぎて麻痺しているところはあるが、この曲は緩急がかなり激しく、安定して歌い切るにはかなりの体力と技術を要する曲と言えるだろう。あやうみは独特な振り付けと共に、まるで機械のように正確に、しかし感情豊かに歌い上げているように見えた。ピッチを外さないことは当たり前のことだが、その先の表現力への挑戦、という段階に彼女はいる。本人が意識しているかどうかは知らないが、彼女の歌唱力は、彼女の声そのものの魅力によるところが大きい。常に張りと力のある発声でありながら、女性らしい色気と艶をも持ち合わせている。それを曲に応じて使い分けている、自分の得意技を知っている、という印象だ。だから強い。聴衆の心を確かに捉える強さがあるのだ。
短いMCと告知を挟んで最後の曲は「No Pain, No Game」。この曲への聴衆の反応は正直微妙だった。今期アニメ「BTOOOM!」の主題歌で、ニコニコ動画出身のナノが歌う曲だ。失礼かも知れないが他の2曲と比べると残念ながら広く知られている曲ではない。しかし、この曲はとてつもなく素晴らしく優れたロックソングだ。あやうみは、ナノの力強さと切なさを自在に操るような歌い方を、かなり忠実に再現していた。やはりあやうみの声はロックソングに合う。この曲を、彼女が生で歌うのが観れて、とても満足した。3分ほどの短い曲だが、充分にあやうみの多彩な歌声を堪能した。
彼女の出番が終わると、私はさきほどのラウンジでのトラブルを思い出し、これ以上の無用なトラブルを避けて早々に会場を離脱した。いざこざはあったが、アイドルオタクでもない出不精の男が休日の午前中から足を運ぶだけの価値は充分にあった。アイドルとしての商品価値とか、そういうものは私にはわからない。若くて愛らしい容姿なら、歌唱力など要らないのかもしれない。しかし、ステージに立ち、聴衆の前で歌うビジネスである以上は、歌を聴くという本質的な価値を、私は評価したい。その本質的な歌の魅力を、近年はメジャーシーンで感じることが少なくなった。私はひょんなことから地下ライブ界隈を知ることになったが、そこには絶対的に確かな歌の魅力があった。これは私には驚くべきことだった。私はほとんどライブやイベントには行かないが、確かに良いと思えるモノがあれば足を運ぶし、金も払う。ただそれだけだ。メジャーだろうとインディーズだろうと関係がない。自分の心に刺さるシンガーに出会えたことに純粋に高揚している。